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                                初出:『自治日報』04年4月9日号
                             澤井 勝

自由、平等、博愛
              交付税制度の意味を考える

 この数年、地方交付税制度のありかに関する批判が強い。その主な理由として、交付税の存在が、地方自治体にいわゆるモラルハザードを引き起こしているということがあげられることが多い。つまり、受益と負担の関係をあいまいにし、財政膨張の大きな原因となっているという。この批判は、交付税や補助金への依存した財政運営を助長するという点で、一面ではあたっているとも言える。特に起債の元利償還金を需要額に算入するというかたちで、将来の交付税財源を先食いする仕組みにその色彩が強い。

 しかし、地方交付税の意義について、「受益と負担の関係を明確にする」かどうかという評価基準でのみ評価するのもどうかと思う。一般に政治や行政の仕組みは、ひとつの評価基準で裁断することはできない。それは価値の複合体である。ひとつの法的な制度が作られていく過程を見ると、いくつかの政治的あるいは社会的な勢力の間で妥協を積み重ねながら、結局のところ複数の理念を実現しようとしてつくられていることに気づく。

 地方財政調整制度としての我が国の地方交付税制度も、主としてふたつの理念で構成されていると考えられる。ひとつの理念は財政調整という機能が持つ理念である。つまり課税力の差による財源偏在を調整して、どの自治体でも標準的行政を行うことができるよう、一般財源を再配分することである。このことを通じて自治体、ひいてはそこに住む住民が自らの責任で「自己決定できる自由」を確保しようとする。

 もうひとつの理念は、交付税総額の確保を通じた自治体総体の財源保障という機能であり、自治体行政のナショナル・スタンダードを実現しようと言う理念である。つまり、個別行政の一般財源を「基準財政需要額」の測定によって把握し、その総和としての自治体行政の標準的な需要に対応しうる一般財源を、地方税と交付税とで確保する。これは、「行政水準の平等性」を実現し、それを通じて「住民の平等な権利」を確立しようという理念とも言える。

 このように地域住民の「自由」と「平等」という価値を、共に実現しようとしているのが、地方交付税制度の歴史的に形成された性格だということもできる。

 地方交付税の財源保障機能の廃止や縮減という議論は、この「平等性を実現するという理念」を廃止するということでもある。その結果は、格差の拡大を通じて、社会的な不安定性や衝突が生じる可能性が高まる。

 この「自由」と「平等」は、「博愛」とともにフランス革命のスローガンになり、三色旗というかたちに表現されている。この「自由」と「平等」は、近代社会を構成する主な原理として、その間には常に緊張関係がある。すなわち、「自由」を徹底すれば「平等」が危うくなり、「平等」を突き詰めれば「自由」が圧迫されるように見える。しかし、この二つの理念は、市民がふたつともに実現しようとする価値である。

 このことを、「絶えず『個の自己決定権』と『共同性』の間で揺れている人間、それが故郷喪失者としての近代的人間」だともいう(金子勝『市場と制度の政治経済学』)。

 つまり、「自由と平等」という二つの理念(人々が実現することを欲する目標)は、あれかこれか、というような二者択一的な理念ではない。それは、その間で揺れ動きながら、ある時は自由のほうに傾き、あるときは平等のほうに揺り戻す、そのようにゆきつもどりつしながら、ともに追求されるべき複数の理念なのである。

 人間社会は複雑だから、ひとつの理念で割り切るには無理がある。だからこそ、討論と合意形成を通じて、異なる意見を統合し、あるいは少数意見と協調していく民主主義制度とその手続きが決定的な意義を持つのである。

 もうひとつ重要なことは、「受益と負担の関係」を明確に出来るためには、一定の条件が必要であるということを確認しておかねばならない。「受益と負担の関係」を明確にするためには、各自治体が相当程度まで税を自主的に課税できる経済的条件を持ち、歳出についても自治体の裁量が大きくなければならない。そのような条件を経済構造からして(自らの責任ではなく)持ち得ない地域に、この「受益と負担の関係の明確化」というドグマを一律に適用することは、社会的に不公正である。ハンディキャップをつけることは、競馬の世界や囲碁の世界では当たり前である。アファーマティブ・アクションの意味をもう一度考えてみたい。

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