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現代民法の人間像と自治体(初出:『自治総研』コラム自治、074月号)

 

                    奈良女子大学名誉教授 澤井 勝

 

格差社会論が花盛りだ。政府が格差を認めるのを躊躇する中で、格差が広がる。実際のところ、経済財政諮問会議の民間委員などに代表される意見は、社会的格差を拡大して競争を強め、生産性をあげるというところに本音があると見て差し支えない。この本音と最近のホワイトカラー・エグゼンプション導入論者や新古典派経済学者、大企業経営者には、共通した人間像が前提にされている。それは、「理性的・意思的で強く賢い人間」である{星野英一『民法のすすめ』岩波新書、163頁}。

しかし、このような「強く賢い人間像」にはなにか違和感がある。そう感じていたところ、「新しい市民社会」の構築について考える中で、1998年に初版が出たこの『民法のすすめ』に出会った。その中にこの「強く賢い」人間像が出てくる。経済や経営の世界では、なおこの人間像が中心である。しかし、星野など法学者によれば、この「強い人間像」は20世紀の後半、特に二つの世界大戦を経て大きな変容を遂げてきた、という。

フランス革命によって人権宣言を基礎に成立した古典的近代民法典は、人間を身分制から解放された平等(形式的に)な者と捉え、その財産権を尊重し、「強く賢い」かれらの自由な活動にまかせることによって、よい社会関係が成立すると言う思想に立っていた。しかし、市場経済社会においては、産業革命後の大企業の成立により、企業内の労働契約や企業とその生産物の購入者との契約は、「対等な当事者間の契約」ではなくなった。社会的にも経済的にもその地位が平等ではない者を、形式的に平等に取り扱うことによって、一方の自由は他方の不自由となり、不平等を拡大した。企業にとってはこれは止むを得ないことかも知れない。しかし、この不平等の放置、拡大は、契約関係の根拠自体を破壊する可能性があり、社会全体の存続と言う観点から調整が行われた。

具体的には、19世紀後半からの労働運動などを経過して、労働団体の公認と最低労働条件の法的確保、消費者保護などの各特別法によって全国民の実質的自由と実質的平等をもたらしてきた。それは政治および国家による放任的市場経済への介入であった。すなわち「財産法においては、自由・平等の理念が形式的・抽象的なものであるため、事実上強者の自由・弱者の不自由、両者の社会的不平等を放任し、またはもたらしたので、強者の自由をある程度制限するという、ある意味での不平等を導入し」(『同』159頁)たのである。

現代民法の理念としては、人間の抽象的・形式的な自由・平等から、具体的・実質的な自由・平等の確保が強調されてきたとも言える。これに対応して、現代民法における人間は、率直に社会的地位や差異を認められた具体的な弱者・強者となる。「しかも弱者は保護の対象ではなく、平等に人格を持つ者として、可能な限りその自由な発意と行動が認められ、他方で強者も受動的制約の対象ではなく自由な連帯意識に基づいて自発的にこれに協力する者として、全ての人間は実質的に平等たるべき存在となっている。」(『同』169頁)

その人間像は「強く賢い」ものではない。常に間違いをし、判断を誤る、「弱くて愚かな」人間である。いくつかの契約で認められるクーリング・オフはそのような人間(愚かなわれわれ自身)を相手としている。ミスをしても「自己責任」と突き放すことなく、再度の立ち上がりのチャンスを用意するのが現代民法である。

「強く賢い」人間像は、市場経済という人間生活の一部を代表する人間像だ。その人間像を、教育や福祉などに過度に、形式的に拡張するところに、様々なひずみが生じる。

このような観点からすると、現代の統治団体としての地方自治体は、このような「弱くて愚かな」人間の権利をも実質的かつ具体的に保障するよう、適切な立法(条例と規則)によって市民社会に介入することが求められる。「国家の主権者は国民であり、国家は個人の自然権の保全のために存在するのであるから、公法は私法を維持する目的のもの」だからである(『同』76頁)。」身近な政府としての現代の地方自治体は、各種の虐待防止法、消費者保護行政、権利擁護事業、自立のための就労支援事業などや、企業活動の制限に及ぶ環境行政など各側面において、このような「弱くて愚かな人間」の実質的平等と自由を拡充するべく、現代民法の変容と足並みをそろえて力を尽くすことが求められている。

 

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