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二宮金次郎、二つの肖像(2)

                     抜群の金銭感覚 農民の幸せ実現に生かす
                    SS情報ひろば第17号(2013年9月1日)

                       


                  堺市生き生き市民大学学長  澤井 勝

 前回でも触れたように、金次郎は1787(天明7)年に生まれたが、この年は田沼時代の終わりにあたり徳川幕藩体制に大きなひずみが生まれ始めたころだ。関東一帯は封建制度のもとで疲弊し、人口減少に見舞われていた。

その中で、1791年に酒匂川(さかわがわ)が氾濫して、父利右エ門の田畑23反余が土砂の下になる。1800(寛政3)年、14歳の時に父を失い(43)16歳の時に母よしが没する(36歳)。これで二宮家はいったんはつぶれ一家離散。1806(文化3)年20歳の時に荒廃した生家に戻って手入れをし、貯めていた32分で、質入れしていた910歩の土地を請け出して再興の緒についた。24歳の時に1町45畝の田畑を買い戻して再興する。32歳で小田原藩家老服部家の家政整理に取り組み、5年で完了。1822(文政5)年、36歳の時には小田原藩に名主役格として取り立てられ、別家の宇津家桜町領の再興に取り組む。この仕事は10年かかって再興に成功する。茂木藩、烏山藩、小田原領、相馬藩などの経済の再建に力を注ぎ、1842(天保13)年には幕府に登用(御普請役格)。利根川分水路測量や日光領の救済に取り組む。1856(安政3)年に70歳で死去。現在の栃木県日光市の今市に葬られた。救済した村は600とも言われる。この年の8月に米総領事ハリスが伊豆下田に着任している。

 土地買戻しなどの資金は、営々とした稼ぎで貯めてきたもの。一つは金次郎の生家のある栢山(かやま)から2里のところにある小田原の城下町に、入会地から切り出した薪を売りに行って得た。また、洪水の後の貢租のない荒廃地に捨て苗や菜種を植えて収穫を得たりもしている。さらに、このファンドを、高利の借金で困っている知り合いを助けるために、低利で貸し付け、その返済の時のお礼の米や金で増やしている。

 これらの稼ぎは、いずれもある性格を持っている。それは、どれも貢租のかからない稼ぎなのだ。封建制の領主支配の隙間で得たものなのである。それが金次郎が普通の百姓と違うところと言ってもよい。また、手元資金は、低利貸し付けで運用する。買い戻した田畑は、自分で耕作せず、小作に出して小作料を得る。自らは小田原で武家に勤めて給金を得ている。

これらの経験を服部家などの家計整理に生かしている。

 同時期を生き急いだ吉田松陰(18301859)や、一揆や打ちこわしのような「世直し」とは、社会のありようを変えようとすることでは同じともいえる。しかし金次郎のやり方は違う。その時代を生きる人々、特に農民の具体的な今日の幸せを実現しようとした点で、その実務主義と合理主義、現実主義が際立つ。(つづく)

 

 

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