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小規模多機能な私たちの家

初出:自治総研巻頭コラム 04年11月号
澤井 勝

 先日、群馬県前橋市で開かれた第30回全国地方自治研究集会に参加してきた。その中で、特に印象が深かったことのひとつを紹介しておきたい。

 富山市に「このゆびとーまれ」という小規模多機能の「家」=デイケアハウスがある。出来てから11年だが、その理事長である惣万佳代子さんのパワーポイントとビデオを使った話だ。

まずその出発点。日本赤十字病院に勤めていた看護婦3人が、患者さんの納得がいく死にかたを選べるように、また望み通りの死場所を作ろうと、退職金で2階建ての家を建てた。自分たちの思いが先にあって、お金はまず身銭を切るところから始まったのだ。

 これが、市民型の助け合いの特色だと思う。まず人の思いを受け止める柔軟な感性と強靱な意思がある。そして、知恵のあるものは知恵を、力のあるものは力を、カネのあるものはカネをという、猿蟹合戦のように自分の得意技を持ち寄る仲間のあつまりがある。現在28人いるスタッフも、看護婦の他、介護福祉士あり、保健士あり、保育士あり、理学療養士ありと多彩だ。

さて、「小規模多機能施設」。「このゆびとーまれ」が日々実践している多機能には大きくふたつの意味がある。まず富山方式は、高齢者施設ではない。85歳の痴呆の高齢者がゼロ歳児の世話をし、重度の脳性麻痺の障害児と3歳の子が一緒に遊ぶ。養護学校を出た知的障害者が、食器の洗い物を担当する。関連する法律は老人から児童、障害者まで7本になるし、補助金も各法にもとづくものを複合して受けている。ごちゃごちゃ、がやがや、しているのだ。

第二の意味は、通って、泊まって、住める、という意味での多機能だ。そのために、このデイケアハウスにはこれといった決められた日課がない。それぞれが自分の生活のペースで一日をすごしているから、必要なことは必要なときにそれぞれがすればよいし、職員も必要に応じて手助けをし、一緒に作業をする。さらに人への関心があつくお互いに面倒を見られたり、面倒を見たりと、固定した役割がない。そしてついの住処として、機能している。ある95歳の方はこの「家」で、最後は惣万さんなどスタッフに数週間の間、添い寝されながら息を引きとったが、その間に、「医療行為」としては点滴一本を打つこともなかった。それはご本人の希望に沿うことだった。畳の上の自然死が実現している。ここには、病院時代に末期の肺ガン患者をケアする呼吸器内科勤務をとおして多くの臨終に立ち会ってきた、「死」についての深い思いが生かされているようだ。

特にびっくりするのは、利用希望者を決して拒まないことだ。一時、人手が足りないこともあって、断ったこともあるが、「このゆびさんもだめなんだ」というため息に対する反省から、その後はだれでも受け入れてきた。この5月には、「このゆびとーまれ茶屋」を開き、受け入れキャパシティーを拡大している。さらにケアホーム起業の講習を行い、講座受講者の中から、このデイケアハウスが県内に12ヶ所と広がっている。

ところで、ある先生(小笠原さん?)が言ったこととして紹介された言葉も面白い。「富山県はカネを出さなかったけれど、口も出さなかったことがえらい。」本当にそうだ。他の県ではつぶしにかかったかも知れない。もっとも、惣万さんたちのほうがはるかに迫力があって、結果オーライという意味での模様見の立場に立たざるを得なかった、というほうがよりありそうなのだが。

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